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明治憲法起草の地、江戸時代の横浜市にあった藩、金沢八景の由来

金沢区は、横浜市の南部にあり、鎌倉に隣接しているので、横浜市内では歴史のある土地です。

また、金沢区は東京まで近く、気候も温暖なことから、明治時代の著名人が別荘を建てた土地としても知られています。

明治憲法は横浜市金沢区の地で起草された

金沢八景駅を出て国道16号を横浜方面へと歩き、「瀬戸神社前」を右折して5分ほど歩くと明治憲法を起草した地の碑にたどり着きます。

伊藤博文は、日本の初代総理大臣として知られていますが、伊藤博文は金沢区にある夏島の地を好み、自分の別荘を建てています。

ちなみに、伊藤博文の別荘は、今もあり、金沢シーサイドラインの「野島公園」駅から徒歩で5分くらいです。

 

「この地は、料亭東屋の後で、明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らが明治憲法制定のため草案を起草したところです。

 

明治20年6月から、東屋に集まり草案の構想を練っていました。

金子・伊東は東屋に泊まり、伊藤は夏島の別荘から、井上は野島旅館から通いました。

8月6日夜、東屋の伊東の室に盗賊が入り機密書類の入っていた行李が盗まれましたが、翌日書類は無事発見されました。

その後、伊東・金子両名は夏島の伊藤の別荘に移り、草案が完成されましたが、東屋が起草の地であるとして、昭和10年(1935)「憲法草案之処」という記念碑が金子堅太郎書で東屋裏庭内に建てられましたが、東屋廃業後、現在ここより40m東に移され設置されています。」

明治憲法起草の地

横浜市内にも大名がいた?江戸時代にあった六浦藩

小学校から中学校まで横浜市の金沢区で過ごしましたが、江戸時代に金沢区にも藩があったことを知ったのは

社会人になって数年経ってからでした。

 

その金沢区にあった唯一の藩は、六浦藩というそうです。金沢(かねさわ)の地にあったので金沢藩でしたが、加賀の金沢藩の方が有名なので六浦藩と呼ばれています。

六浦藩は、旧武田家家臣の米倉氏が治めていたようです。

 

米倉氏は、武田家が滅んだ後の1582年から徳川家に仕え、五代目の1690年に領地を加増され、1696年に若年寄に昇進して1万石の大名になり1699年に下野の皆川藩の大名となりました。

 

六浦藩となったのは1722年の第8代藩主忠仰のときでした。

第15代のときに版籍奉還が起こり、米倉氏は初代藩知事となりました。

明治4年の廃藩置県で六浦県となり、後に神奈川県に編入されて六浦県はなくなったそうです。

 

参考文献 「金沢区の歴史」

写真は能見台緑地

金沢八景の名前の由来は中国の瀟湘八景

金沢八景の名前の起こりは、中国の「瀟湘八景」がもとになっているといわれています。

 

室町時代に瀟湘八景の絵が中国から持ち込まれます。

瀟湘八景の絵が話題となり、瀟湘八景がきっかけとなって、日本全国で様々な土地に八景をあてはめることが急速に広がり、至る所で八景にちなんだ詩が詠まれたそうです。

 

「ぶらり金沢散歩道」によると、元禄時代に中国の心越禅師という坊様が能見堂から見た景色を瀟湘八景になぞらえて「能見堂八景」を漢詩として読んだことが金沢八景の起こりのようです。

能見堂は、今では跡地になっていて、今は建物のおかげでどこが八景なのかよく分かりませんでした。

 

全国で八景が詠まれたのにもかかわらず、金沢八景だけが名前が残ったのは、特に景勝が優れていたおかげだといわれています。

 

また、八景は様々な絵師によって画として描かれており、多くの作品が残されております。

中でも歌川広重は金沢の地を好み、絵に残したようです。歌川広重の代表作の一つが「金沢八景」になります。

 

今では金沢八景の景色も様変わりしましたが、今でも地元民に愛される地であることには変わりがありません。

 

参考文献

「ぶらり金沢散歩道 歴史・伝説・民話を歩く」  楠山永雄著

 

 

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