鎌倉にある切通について、休日を利用して調べたり、実際に足を運んでみました。
かつては鎌倉に入るには切通といわれる山を切り開いたような道を通る必要がありました。
鎌倉は、南に海があり、後の三方も山に囲まれているため、切通が無数に作られたそうです。
昔は鎌倉へ行く人で賑わっていた切通しも、今では大きな通りに役割を奪われて、人の通りがほとんどないか、その後の整備によって面影を残していないかのどちらかです。
鎌倉七口
鎌倉へと続く切通しはいくつかありましたが、特に有名な切通しを京都の七口にならって「鎌倉七口」と呼びます。
極楽寺の切通し、大仏坂の切通し、化粧坂の切通し、巨福呂坂の切通し、朝比奈切通し、亀ヶ谷切通し、名越の切通しの七つの切通しです。
中でも極楽寺坂の切通しは、京都へと続く道だったので、人通りが多かったようです。
ただ、この七口も鎌倉時代はなかったものや、江戸時代になって呼ばれるようになったものもあり、あいまいな部分も多くあるようです。
昔の面影を残す切通には、化粧坂の切通し、朝比奈切通し、大仏坂の切通し、名越の切通しがあります。
これら4つの切通しは、ハイキングコースにもなっているので、ハイキングをしながら歴史に触れることもできます。
極楽寺坂(極楽寺切通)
極楽寺坂(極楽寺切通)は、極楽寺駅から長谷に向かう途中の道です。
現在は、道路が舗装されているので、石碑がなかったら気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
鎌倉末期に新田義貞の軍と大仏貞直の軍の激戦地となった切通です。
車の通りもそれほど多くはなかったです。この道は海街diaryでも出てきましたね。
極楽寺坂の碑
「此所往古畳山なりしを、極楽寺開山忍性菩薩、疏鑿して一条の路を開きしと云う。
即ち極楽寺切通と唱ふるは是なり。
元弘三年の鎌倉討入りに際し、大館次郎宗氏、江田三郎行義は新田軍の大将として此便路に向ひ、大仏陸奥守貞直は鎌倉軍の大将として此所を堅め相戦ふ。 」
報国寺には、この時の戦没者が慰霊されてます。
巨福呂坂(小袋坂切通)
小袋坂は、鶴岡八幡宮からも徒歩で行ける距離にあります。
歩いて行けますが、現在は私有地となっており、通行が禁止されています。
なので、訪れる人もほとんどいません。
この奥が小袋坂のようですが、途中が個人の敷地みたいだったので引き返しました。
大仏切通
今も当時の面影を残している切通の一つが「大仏切通」です。
大仏切通は、鎌倉中期ごろに整備されたのではないかと考えられています。
鎌倉は、三方を山に囲まれ、一方は海のため、天然の要害でした。
鎌倉七口を軍でふさがれると、攻め手はなかなか難儀していたそうで、太平記でも新田義貞の苦戦が描かれています。
大仏切通は、国の指定文化財になっています。
途中までハイキングコースと重なっています。
化粧坂(化粧坂切通)
源氏山公園から化粧坂を通って下ると、海蔵寺の近くに出ます。
化粧坂も当時の面影をのことしているといわれる切通です。
化粧坂自体は、100mほどの長さしかありませんが、鎌倉時代末期に新田義貞軍と北条軍が戦った場所です。
この切通しから鎌倉入りしようと思った義貞でしたが、思いのほか抵抗激しく、攻め落とすことができませんでした。
結局、義貞は稲村ケ崎の南を迂回して鎌倉入りしたといわれています。
切通の長さは短いですが、道は狭く急です。
亀ヶ谷坂(亀ヶ谷切通)
亀ヶ谷坂は、建長寺側から来た場合は、岩船地蔵堂にでます。
切通は、場所が移ったりしているので、当時と違っていることもあるようです。
亀ヶ谷坂は、13世紀中ごろには整備されたのではないかと言われているそうです。
この切通によって、建長寺がある山ノ内と寿福寺や源氏山がある扇ガ谷が結ばれました。
名越切通
名越切通も当時の面影を残している切通の一つです。
名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ交通路でした。
三浦半島には、平安時代から三浦を治める三浦家がありました。
逗子の小坪から入った切通
舗装はされていませんが、歩きやすい切通です。
鎌倉には、たくさんのやぐらがありますが、名越切通には約150ものやぐらがある「まんだら堂やぐら群」が途中にあります。
やぐらには、供養塔が立っていることがほとんどです。
現在は、原則閉鎖していますが、年に数回程度公開される日があります。
一説には、ここに処刑場があったのではないかという話があります。
朝夷奈切通(朝比奈切通)
朝夷奈切通は、現在の横浜市金沢区と鎌倉を結ぶ交通路です。
朝夷奈切通も当時の面影を残しています。
鎌倉の海は遠浅だったので、海のある六浦は鎌倉の外港としても重要な地でした。
吾妻鏡には、三代執権北条泰時が陣頭指揮をとって工事が行われたということが書かれています。
また、朝夷奈三郎が一夜にして切り開いたという伝説もあります。
ここを塞がれると大軍は通ることは出来ません。
十二所の近くにある入口は、足元がぬかるんでいました。
当時は、現在の金沢八景も含めて六浦と呼んでいたそうです。