鎌倉方面に仕事の用事があったので、ついでに源頼朝の墓に寄りました。

頼朝の墓がある周辺には、他の歴史上の人物のお墓もあります。

頼朝の墓は、日本の歴史上で最も有名な人物の一人にしては意外に地味なお墓でした。

 

源頼朝のお墓から数十m東に進むと、大江広元、北条義時、島津忠久のお墓の入り口があります。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓

源頼朝の墓へは、鎌倉駅を降りてまっすぐ進むと若宮大路に出ます。次に、若宮大路を左に曲がって進むと鶴岡八幡宮に突き当たります。

鶴岡八幡宮前を金沢方面に進んで行くと、信号2つ目に「岐れ路」という交差点がありますが、岐れ路まで行かず、手前を左へ曲がります。

曲がった後は突き当りまでまっすぐ進むと「源頼朝の墓」があります。

 

 

お墓の近くには小さな公園があり、白旗神社もあります。

源頼朝といえば、1192(諸説あり)年に鎌倉に幕府を開き、武家政権を始めた日本で最も有名な歴史上の人物の一人です。

頼朝が幕府を開いた後は、1333年に新田義貞に攻められるまで鎌倉は政治の中心地でした。その後、政治の中心が京都に移りますが、寺院や史跡が多いことからその後も古都として栄えました。

 

頼朝のお墓は、源氏ゆかりの白旗神社と隣接していました。

 

源頼朝は、1199年の1月13日に相模川の橋供養から帰る途中に落馬し、これがきっかけで53歳で没したといわれています。

 

頼朝のお墓へは、観光客が入れ替わりお参りしてました。

外国語で会話している人がいましたが、外国でも頼朝は知られているそうです。

韓国と中国では、徳川家康が知名度も人気も高いというのは聞いたことがありますが、頼朝はどうなんでしょう。

 

北条義時の法華堂跡

頼朝の墓に上がる階段を上がらず、階段のわきの道を通って東に100mほど進むと、鎌倉幕府の公文所初代別当の大江広元の墓や、島津忠久の墓への入口があります。

大江広元は、戦国時代に中国地方最大の戦国大名にまでなった毛利元就の先祖にあたります。

 

島津忠久は、薩摩の島津家の先祖にあたる人ですが、源頼朝の側室の子という説もあります。

 

階段を上がって進んでいくと、空き地のような場所に出ます。

 

 

法華堂案内板

「この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。

承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。

義時は貞応3年(1224年)に62歳で没しました。

「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、源の頼朝の法華堂の東の山を墳墓の地とし、そこに新法華堂(北条義時の法華堂)を立てたことが記されています。

北条義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005年)に行われた発掘調査により、8,4メートル四方の平面正方形の建物跡が確認され「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。」

 

この空き地に北条義時の法華堂があったようです。

吾妻鏡には、右大将頼朝の法華堂の東の山上をもって墳墓となすとあります。

北条義時は、2代執権で、別名得宗と呼ばれていたので、北条家の嫡流を得宗家といいます。

 

左手には三浦家のやぐらがあります。

 

さらに階段を昇っていった先にもお墓があります。階段が急で滑りやすいので、転んだら大けがしそうです。

かなり急で足元が滑りやすいため、雨上がりの時などは特に注意したほうがいいと思います。

学生時代にレポートのために訪れたときは、雨上がりで足元が悪く、気をつけていましたが、滑って膝を打撲しました。

 

大江広元の墓

 

大江広元は、頼朝に招かれて側近となり、鎌倉幕府に開設された公文所の初代別当になります。

その功によって広元は、相模の毛利荘を与えられ、子孫は毛利の姓を名乗るようになります。その子孫の一人である毛利元就の代では、中国地方最大の戦国大名にまで発展しました。

頼朝死後も鎌倉幕府の重鎮として活躍しました。

 

大江季光の墓

大江広元の四男といわれる大江季光の墓です。

季光が武功を上げたことで安芸の吉田の地頭になりますが、宝治合戦で三浦方についたため、三浦方が敗北したときに季光も自刃しました。

その後、生き残った子の一人が安芸の吉田に住みます。

安芸の吉田といえば、毛利元就の吉田郡山城があった場所ですね。

 

島津忠久の墓

 

島津忠久は、後に薩摩の戦国大名となる島津家の祖にあたる人です。

島津忠久の母親は頼朝の側室だったのですが、頼朝の子といった説もあり、あまり出自がハッキリしてないようです。

 

 

 

法華堂のあった跡地の階段下の辺りには、幕末の長州藩士村田清風の碑がありました。

村田清風は、小姓として毛利家に仕えて後は、家老として長州藩の舵取りをしました。

 

大江広元と季光の墓を清風が整備したそうです。